興善寺の歴史

興善寺は仁寿二年(852年)第五十五代文徳天皇(在位八五〇~八五八年)の勅題により、慈覚大師円仁が創建したと伝えられています。

寺伝によれば初めこの地に千数百年を経たる大楠木があり、その幹下の空洞に一人の行者が多年浄行をしていました。

里人は楠入道と称して病の者があれば祈祷して癒し、このことが遠近に伝わり、遂に天皇の耳にまで届きました。

天皇は勅を出され楠入道は参内し祈る事により、たちどころに御回復いたしました。

天皇は金吊を下さるという事でしたが楠入道はこれを辞退し「わたしの住んでる地に、お堂を建て大日如来をお祀りすることが永年の願いでした。どうかこの願いを叶えてください。」と言い残し忽然と消えてしまいました。

天皇は楠入道の行方がわからない為、慈覚大師に当山開基の勅を出され、寺の地形が唐(現 中国)の長安(現 西安)にある「大興善寺」に似ていた事から鳳樹山 興善寺の号を授けました。

創建当時は広大な寺領に七堂伽藍を構えていたと伝えられていますが、元亀天正(1570年頃)の兵火によって焼失、本尊は僧の手によって蓮池に投げ込まれ難を免れました。

明暦元年(1655年)中興の祖専海僧郡が紀州粉河寺より興善寺へ来られ、元禄初期(1690年頃)再建されて現在に至ります。

仏像が投げ込まれたとされる蓮池

後ろは常行回向堂

後ろは山門